ありし日の大阪市天王寺區「大江護國神社」の『舊山口藩殉難諸士招魂之碑』(皇紀2653.9.20撮影)


★大阪市天王寺區「大江護國神社」の『舊山口藩殉難諸士招魂之碑』にお参りしました。 (皇紀2653.9.20)

天王寺の「大江神社」の百壱段ある参道の階段を上ると中腹に脇道が整備されてゐる。「殉皇」「旌忠」と彫られた入口の標柱をくぐると、「大江護國神社」の社域に至る。 「大江護國神社」の名の「大江」は、如何にも毛利氏の祖先と所縁がありさうだが、これは偶然で、「大江神社」の脇に創建された「招魂社」の為に「大江護國神社」と呼ばれてゐる。

【碑陰】
(一段目)   (二段目)    (三段目)  (四段目)  (五段目)
宍戸久之進 本多政之助   井原繁三郎 三隅芳兵衛 小者 義蔵
上田亀之進 佐々木五右衛門 市木和十郎 正木瀧蔵   同 兼太郎
市川孫七  水井精一    上田梅三郎 秋元作兵衛  同 三吉
粟屋又助  山本誠一郎   兼安榮蔵  宮重勝市   同 岩吉
吉井千代熊 山本文之助   林政右衛門 中村荘七   同 勝平
景山勝三郎 大原六太郎   森田吉次郎 田中荘蔵   同 忠太郎
江津甲之進 今井平蔵    永井吉三郎 藤井勇治   同 清次
須子吉次郎 松本松蔵    徳富新太郎 松宮震一   同 吉蔵
高橋武熊  藤井駒吉    林政之進  小者 佐太郎
岸本敬三郎 高橋荘三郎   河内弥四郎  同 宗次郎

以上 48柱の山口藩の忠臣の御芳名が謹刻されてゐる。


「禁門の変」で敗れた長州兵が淀川を下つて敗走の途中、大坂の「桜之宮」邉で高松藩兵に捕まり、幕吏に引き渡され「千日獄舎」に繋がれた。獄舎での扱ひは壮絶を極め、一説には、食事に毒を盛られて一人づつもがき苦しみながら息絶へたさうである。(※尤も、宍戸久之進は、かろうじて脱出し長州へ帰藩することが出来たが、その後、責任を取って切腹している)

其の屍体は「賊徒の屍体」として、犬猫の骨と一緒に「千日前」の処刑場(※現 ビックカメラの横の「アムザ1000」の場所)脇の骨捨場に墓標も建てられず捨てるように埋められたのである。

之を維新後、旧山口藩士と山口県の有志が掘り起こして「勤皇の志士」として菩提を弔ひ、招魂社を建てたのが、この「大江護國神社」で、京都の霊山護國神社のやうに御祭神一柱づつ墓標を建てゝ手厚く祭祀をした墓標と御遺骨は、今は「阿倍野墓地(大阪南霊園)」にある。

二段目の「山本文之助」は、摂津の尼崎まで逃げのびた処で捕まり、「実に残念」とつぶやいたのが地元で評判となり「残念さん」と呼ばれている。兵庫県尼崎市には「残念さんの墓」(所在地 尼崎市杭瀬南新町4丁目9番13号杭瀬東墓地内)が史蹟として残されてゐる。

また、同じく二段目の「水井精一」と「山本誠一郎」に関しては、「禁門の変」では無く「薩摩藩御用船『加徳丸』襲撃事件」の殉難者である。

元治元年(皇紀2524)2月12日、薩摩藩御用船「加徳丸」襲撃事件が起き、薩摩藩が密貿易していたとされる荷が焼かれ、船主の大谷仲之進が殺害された。

而して其の真犯人が捕まらなかつたが、薩摩藩との関係上、長州藩の中で犯人検挙せねばならず、やむなく「藩のため、来るべき國家の為に」犯人として罪をかぶつてくれる者が居無いか募つた処、「國を思い藩の体面を慮った」義勇隊士の「水井精一」が名乗りを上げた。しかるに、犯人が一人だけでは都合が悪いという理由で、同じ隊士の中から「山本誠一郎」を選んで「藩のため」犯人として切腹するように命ぜられた。

大坂の東本願寺難波別院前で、多くの人が見物する中、自ら名乗りを上げた「水井精一」は、潔く切腹して果てたが、「山本誠一郎」は納得がいかなかつたらしく、腹を切りそこね介錯人の野村といふ男に首を刎ねられて殺されたのを「切腹」と偽装されたのだそうである。

その後の3月10日、周防室津浦で「加徳丸」襲撃事件の真犯人として同じ義勇隊士の「高橋利兵衛」が自首し切腹して果てた。

野村靖が中原邦平に語ったものを記載した『忠正公勤王事績』他で、此の事件に関しては、様々な解釈がされてゐるが、犯人として切腹した「水井精一」と「山本誠一郎」は、やはり事件とは無関係であつたらしいのである。洵に忠臣の亀鑑とも云ふ可天晴れな殉死である。彼等のやうな忠節の精神の基に、明治維新の大偉業が為されたのを我々は決して忘却してはならないのである。


「大江護國神社」の参道には皇紀2600年記念行事として、この「招魂社」の社域を多くの勤勞奉仕の方々や小學生たちが補整擴張した旨の記念碑が今も残されてゐる。


大阪市阿倍野區の「阿倍野墓地」には、明治2年に建てられた山口藩殉難者の「奥都城」と『(長州藩)死節群士之墓』があり、 その碑の前方には昭和31年晩春に長友会によつて建てられた 『(長州藩殉難者)顕彰碑』がある。


所在地:大阪府大阪市天王寺區夕陽丘町5丁目40番地
最 寄:「大江護國神社」内(「招魂社」左側)
形 状:石碑型
揮毫者:従四位 毛利元昭
建立年:明治23年11月
建碑者:山口縣有志中

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