『讀賣新聞』平成24年(2012)7月13日夕刊
★『讀賣新聞』平成24年(2012)7月13日夕刊より。
記事には板垣の新発見写真のことしか出ていないが、実際には、乾家(現 高岡家)に残されている、板垣絹子・板垣鉾太郎・板垣正貫の書簡や乾家・板垣家の除籍謄本・壬申戸籍・明治19年式旧戸籍・遺品・「明治維新100年・板垣退助薨去50年を記念して品川神社で行われた墓前祭」の写真や式次第など数十点を高知自由民権博物館の専門家が調査した内の一点である。
特に板垣退助薨去50年墓前祭では、退助の五女の小山良子さんや、板垣正貫氏の夫人の晶子さん、板垣直磨氏などと一緒に乾真理子さんや、真理子さんの父・乾一郎氏が写った写真など貴重なもので、現在「品川神社」裏(旧 東海寺瑩域)に建てられている佐藤栄作揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑は、この時に序幕されたものである。この薨去50年墓前祭は神式を以って挙行せられ、以後、板垣は「(自由民権の)神」として奉られているのである。正に自由は死せずという訳である。
【記事本文】
「自由民権運動家・板垣退助(1837-1919)が明治初期、大政奉還に尽力した後藤象二郎(1838-1897)と撮影したとみられる写真が板垣の子孫宅にあることがわかり、高知市自由民権記念館が13日、発表した。
土佐出身の2人は維新や民権運動などで協力しつつ、考えの違いなどで離反も繰り返しており、(板垣と後藤が)並んだ写真が確認されたのは初めて。
写真は、板垣の次男・乾正士の孫・高岡真理子(旧姓 乾)さん(66)(大阪府池田市)が所蔵し、画面左から乾正士の養父(乾正厚)・板垣退助・後藤象二郎と伝えられている。
写真の存在を知った同記念館が、顔の輪郭や唇の形などを基に板垣、後藤と比定。板垣に「まげ」がなく、後藤にはあることなどから、撮影は、ともに30歳代で新政府の一員となった1869〜1970年頃らしい。
(板垣と後藤の)2人は生家が近く、幼児期は同じ塾で学んだ。その後、朝廷と幕府の融和を目指す公武合体を唱える後藤に対し、板垣は倒幕を主張。維新後は一緒に自由民権運動を進めても、政府に対する立場を異にするなど、反目することが多かった。
幕末・維新についての著作が多い文芸評論家・野口武彦さん(75)は「一緒に写真に納まるとは考えにくい2人だが、ともに社交的な性格も相まって、何らかの機会に撮影していてもおかしくない。交流を伝える資料だ」と話す。
同記念館は8月1日〜31日、写真の複製を展示する」
髭の無い板垣退助の写真は現在7種類しか無く、これまで知られていた6種類に加えて今回の写真が7種類目の写真となる。
板垣と後藤は竹馬の友であり、ヨーロッパ視察の時も一緒に行動しており、先に亡くなった後藤象二郎の告別式では、板垣自身が若年来の交誼を思い出して朗々と弔辞を読み上げ、のちには東京芝公園内に後藤象二郎の銅像を建立しているが、この銅像は大東亜戦争末期に金属供出を受けて欠したままである。
その後の調査で、板垣と後藤は、明治2年1月に京都で会見しており、「幕末京都で撮影」との伝とも一致している。東京在住の古写真研究家によれば、撮影者は、長崎の上野彦馬スタジオで坂本龍馬を撮影したのと同じ井上俊三ではないかと言われている。この点は、写真に写っている「敷物」の模様などの研究が進めばより解明されるのであろう。
乾家(現 高岡家)に残されている上記の板垣の写真は、トリミングの仕方の違う2点(甲・乙)が見つかっており、甲は若干上下が切れているが左右はハッキリ分かる縦横比のもの、乙は上下が入っているが、若干左右が切れているものである。(※『讀賣新聞』版に載ったものは甲で、『高知新聞』版に載ったものは乙のほうである)
板垣家の菩提寺は、東京芝の「青松寺」で、この寺は、江戸時代、長州藩・土佐藩・津和野藩などの藩士が江戸在留中に使った菩提寺でもあった。板垣退助薨去の際もこの寺で葬儀が執り行われている。板垣守正氏の墓は静岡にあり、板垣正貫氏以降の墓はこの青松寺にある。
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