大阪西区『深尾丹波成質』の寄進した石灯籠。(皇紀2674.9.26撮影)


★大阪西区『深尾丹波成質』の寄進した石灯籠。(皇紀2674.9.26)

これは大阪市西区の「土佐稲荷神社」にある土佐藩士・菅原成質が「慶應紀元歳次乙丑六月祥日」に寄進した石灯籠である。

特別に案内板も無いので、この場所を通り過ぎる人で「菅原成質」の名を見てピンと来る人は100人中一人もいないだろう。

この「菅原成質」という人物は、慶應4年鳥羽伏見の合戦の火蓋が切られるや、土佐藩は乾(板垣)退助西郷吉之助(隆盛)とを介して締結されていた『薩土討幕の密約』に基づき、土佐で『迅衝隊』を編成して松山・高松を鎮撫して京都に登り、鳥羽伏見の初戦参戦の土佐藩士と合流し、隊制を再編し、京都で乾退助が総督兼大隊司令となって東征し、甲州勝沼で大久保大和(近藤勇)らと合戦し官軍が勝利を得ることとなるのだが、土佐出発から京都への上洛までの期間、土佐藩『迅衝隊』の初代総督を任ぜられていた「深尾丹波」がこの灯籠に刻まれている「菅原成質」である。

深尾家は、宇多源氏とも言われるが、江戸時代は「本姓 菅原」と名乗っており、「成質」は深尾丹波の諱である。歴史書には「深尾丹波」と出てくる一方で、神前に捧げる奉献物には「本姓+諱」で名を刻む慣習であったため、「菅原成質」という名を見て「深尾丹波」のことだと分かる人は本当に少ないと思うのである。

同神社内には、大東亜戦争の英霊をお奉りした『祈の像』もあります。

所在地:大阪府大阪市西区北堀江4丁目9番7号
最 寄:「土佐稲荷神社」内、東側
形 状:奉納石灯篭
建立年:慶應紀元歳次乙丑六月祥日

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