★先日、母方の先祖に関係する記事が新聞各紙に載っておりました。(皇紀2672.2.7)

(以下、記事の内容を要約)
明治天皇が土佐藩の第16代藩主山内豊範に幕府を手助けする奸賊である『讃州高松藩』や『伊豫松山藩』を征伐すべしと勅命した御沙汰書。

【内容】
「土佐少将江、徳川慶喜反逆妄挙ヲ助被条、其罪天地ニ不可、容被仰付、讃州高松、豫州松山、同川之井始是迄幕領惣而、征伐歿収可有之被仰出被宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功之旨、御沙汰被事... 正月十一日 但、両國中幕領之儀者、勿論幕吏卒之領地ニ至リ惣而取調言上可有之、且人民鎮撫偏可服、王化様か被所置被事」

【書き下し】
「土佐少将へ、徳川慶喜反逆の妄挙を助し条、其の罪、天地に容ちあらざる被仰付、讃州高松、豫州松山、同川之井を始め、これまでの幕領惣てを征伐し、歿収これ有るべく仰出されを宜しく軍威を厳にし、速やかに『追討之功』之旨を奏ずべく、御沙汰被事。 正月十一日 但し、両國中の幕領の儀は勿論、幕吏卒の領地に至る惣てを取調べ言上これあるべき、かつ人民を鎮撫しひとへに王化に服すべくよう所置れ事」

【解説】
土佐藩の進言を受けて、徳川慶喜は、慶應3年(1867)11月に大政奉還を行った。翌12月には、『王政復古』の大号令が朝廷より発せられたがこれに反発する不穏な勢力がいた為、翌年正月3日には『鳥羽伏見の戦い』が勃発した。この戦いに土佐藩士も加わり官軍を勝利に導いた。七日、明治天皇は、朝敵徳川慶喜を討伐すべく勅(『征討大号令宣布之事』)を発し、10日には27名の朝敵を討伐すべく命を下した。

本書状はその翌日出されたものであり、明治天皇に反逆しようとしていた高松と松山の両藩と川之江(現 愛媛県四国中央市)の天領などの奸賊を討伐せよと、明治天皇が、土佐藩主山内豊範宛てに勅令を下した御沙汰書である。
この書状の内容は、山内侯爵家が編纂した資料集・五藤家文書などで存在が知られていたが、原本の所在は、長らく不明となっていたがこのたび、高知県東部在住の男性が所蔵していることが明らかとなり、平成23年(2012)1月26日、高知市の史研究会が発表をした。

「明治維新の最重要文書。現存していたとは驚き」と鑑定をした、歴史研究家の松岡司(68)氏は話している。

書状は縦22cm×横110cmの切り紙で、土佐少将(豊範)に「15代将軍徳川慶喜の反逆妄挙を助けることは、その罪は、天地にあって許され無い。『讃州高松』と『豫州松山』の両藩と、川之江などの幕府領の奸賊を征伐し、功績を速やかに報告するように」と記載され、但し書きでは「徹底した取調べ」をすると共に「領民には温情ある対応」をするよう指示している。土佐藩はこの勅令を奉じて実際に、板垣退助ら率いる官軍(土佐)迅衝隊が高松城に出陣するなど各地に出兵し、いずれも無血開城させるという功績を挙げた。

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