橿原神宮(若桜友苑)の『殉國之碑』(皇紀2673.8.7撮影)


★橿原神宮(若桜友苑)の『殉國之碑』にお参りしました。(皇紀2673.8.7)

神武天皇の「畝傍御陵」と「橿原神宮」との中間あたりにある若桜友苑に『殉國之碑』と『瑞鶴之碑』が並んで建碑されています。

『殉國之碑』には「第十三期海軍甲種飛行予科練習生戦歿者」と書かれており「甲飛十三期」の英霊をお奉りする為に作られたことが分かります。


【碑文】
海軍甲種飛行予科練習生とは、海軍航空戦力の増強を目的として、航空幹部を育成する為、昭和12年以来終戦まで、旧制中学高学年よりの志願者について選抜されし者にして、第1期生より第16期生まで、その数14万8千115名なり。

選抜されし練習生は、まず飛行予科練習生教程に於て、「一般学」と「軍事学」を修め、 将来海軍航空士官としての「躾」を第一とした心身の練磨をはかり、次いで飛行技術習得の為、飛行術練習生教程へと進み、しかる後、第一線実施部隊へと配属され、作戦航空部隊の一員として活躍せしものなり。

されど、甲飛第13期生2万8千101名は、第二次世界大戦において、戦い我に利あらざる国家存亡の秋(とき)、学業をなげうちて土浦・三重・奈良・美保・松山・鹿児島の各航空隊に入隊し、落日迫る終戦時における日本海軍のあらゆる配置の主幹要員たりき。

即ち、「九三式中間練習機」の特攻訓練を終えて出撃寸前にある者、人間爆弾「桜花」、ジェット特別機「橘花」、ロケット戦闘機「秋水」の搭乗員として出撃せし者、また、沖縄決戦に於て「神風特別攻撃隊」(第一 第三 草薙隊・第一魁隊・第一 第二 八幡護皇隊・八幡盡忠隊・八幡振武隊・皇花隊・白鷺赤忠隊・第一 第二 護皇白鷺隊・第三 正気隊・琴平水心隊・第四 御楯隊・一次〜五次 白菊隊・白鷺揚武隊・十二航戦水偵隊・神雷部隊)として活躍せし者たち也。

かくて、ある者は索敵中に、ある者は訓練中に、またある者は転進中に、あるいは病魔に蝕まれ、壮途半ばにして護国の神として散華せり。

また、想いを空に馳せつつ、あるいは人間魚雷「回天」(神潮特別攻撃隊、千早隊、多聞隊、多々良隊、天武隊、金剛隊、白龍隊、轟隊、振武隊)として、あるいは特殊潜航艇「蛟龍」・「海龍」として、またあるいは水上特攻艇「震洋」(特別攻撃隊 第二十 第二十二 第二十五 第三十四 第三十五 第三十七 第三十八 第三十九・第百一震洋隊)として出撃し、華々しく体当たりの末、南海の底深く散華せり。

かくの如く大空、水上、水中、あるいは陸上と、各方面からの特別攻撃に日本最後の国防戦力として奮戦し、不滅の功績を残せり。
而してその戦歿殉国者の数、甲飛予科練出身者6千数百名中、1千5名を数う。まさに甲飛予科練のうち、最大の英霊たり。

修験発祥大峯山の麓、奈良吉野郡天川村洞川の清流にありし青石を採石し、神武建国の地、畝傍の森 橿原神宮の聖域に、永遠(とわ)の世界平和を念じつつ、散華せし戦友の氏名を録し、英魂の万古に安からんことを祈念しつつ、第13期生生存者一同これを建つ。昭和48年11月18日 松谷清造謹書」



畏くも人皇初代神武天皇の御陵と橿原神宮の間に位置し、正面に畝傍山を拝する清き地にお奉りされて英霊もさぞ平らけく安らけく鎮まれておられることでありましょう。塵一つ無い、静寂とした空間が広がっておりました。

若桜友苑を管理されておられる橿原市会議員の奥様のお話によると、『殉國之碑』の巨石は、南朝ゆかりの吉野の天川村から遥々取り寄せられたものが使用されているとのことであり、高松宮殿下のご臨席のもと碑の除幕が行われたそうであります。また、若桜友苑内には海軍ゆかりの「絆の錨」など貴重なものが奉納されておりました


所在地:奈良県橿原市久米町934番地(附近)
最 寄:神武天皇の「畝傍御陵」と「橿原神宮」との中間あたり
形 状:自然石型
揮毫者:松谷清造
建立年:昭和48年11月18日
建碑者:第13期海軍甲種飛行予科練習生生存者一同

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