神功皇后の三韓御征伐



★神功皇后の三韓御征伐

中古の朝鮮は新羅・高麗・百済の三國に分かれてゐたが、その昔は「馬韓・弁韓・辰韓」の三國に分かれてゐた。その頃の名称を取つてこの地を「三韓」と称へた。

畏くも三韓御征伐の御神託を拝受せられたる神功皇后は、武内宿禰大臣と御協議の上、仲哀天皇の崩御を秘して、御妊娠の御身にも拘らず、雄々しくも男の姿を装ひ給ひ、多くの軍船を率ゐられて筑紫の松浦より玄海の荒波を乗越へ、新羅に向はせられた。

堂々たる皇軍を見た新羅王は、大いに驚き一戦も交えずして軍門に降り、
たとえ太陽が西より出て、河の水が逆さまに流れるとも、皇國に叛くまじく、毎年貢物を献上仕るべしと誓い奉りて、80艘に金銀財宝を積み献上をしたので、皇后はこれを御許しになり、爾来毎年貢物を献上されるに至つた。

朝鮮の史書『三國史記(新羅本紀)』では、第11代新羅王 助賁尼師今3年(西暦232)4月、初めて倭が新羅の都まで討入り「金城」を包囲したと記述がある。 そして、翌4年(西暦233)5月には、倭が東辺に討入つた際、伊(宰相)の「于老」が倭軍を撃退したといふ記述がある。

諸説あるが、『日本書紀』神功皇后摂政前紀の分注の一伝にある新羅王
宇流 助富利智干(ウル・ジョフリチカン)とは、この于老(新羅宰相・大将軍ウロ)と、助賁尼師今(第11代新羅王ジョフンニシコン)の2名の事を示してゐると思はれる。

さらに、『三国史記(新羅本紀 于老伝)』では、第12代新羅王 沾解尼師今7年(西暦253)癸酉、倭国の使節として葛那古沙至比跪(葛城襲津彦)が、新羅に滞在していた時に、于老(新羅宰相、大将軍)が、倭王をを塩奴(塩を作る奴)とし、王妃を飯炊き女にしてやらうと戯れて言つた。倭王は、この不敬を聞いて激怒し、将軍の于道朱君(ウチシュクン・武内宿禰)を派遣して新羅を討伐させた。倭人は于老を捕らえて柴を積み、その上に于老を置ひて火あぶりの刑に処した。

この神功皇后の三韓御征伐に関する記述は、日本・朝鮮 両國の史書に登場するし、支那の史書にも三韓の地は、ある時は支那に臣従し、ある時は倭に服属してゐたといふ事が記述されてゐる明確な史實なのである。


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