『板垣退助先生・高知市潮江新田邸址』(皇紀2674.7.16撮影)


★『板垣退助先生・高知市潮江新田邸址』(皇紀2673.8.25)

本日は板垣退助の96回忌にあたる命日ですので、高知市潮江新田にある『板垣退助先生邸址』に行ってみました。幕藩時代は、高知城下中島町の現在「高野寺」になっている場所に拝領屋敷のあった退助は、維新以降は東京に住んでおりました。

その後、高慢無礼なる態度をとる朝鮮国に対して世論は沸騰。退助らの主張する征韓論を拍手喝采で向かえます。明治6年、朝鮮征伐が閣議決定されますが、媚韓派・岩倉具視らの謀略によって、閣議決定が反故されると世論の怒りは頂点に達します。征韓論に敗れた退助は、西郷隆盛らと共に漫然と下野。この時、土佐藩閥の諸士たちも退助の辞職に呼応し、官職を蹴って下野します。これが世にいう明治6年の政変であります。

義憤に駆られた旧土佐藩士らは、媚韓派の首魁・岩倉具視を赤坂喰違で襲撃(赤坂喰違の変)するも敗れて命を散らせます。

そして、辞職した土佐藩閥の諸士たちは、東京・鮫洲の山内容堂公の墓前に集まり「日本人の悲願である征韓の目的を達する迄は、再び東京には戻ってこない」と、再起の誓いを行い高知に帰って「立志社」を創始し自由民権運動を開始します。

土佐に戻った退助は、旧土佐藩侯・山内豊範より維新の功として賜った、潮江新田の屋敷に住して、国民の悲願・征韓の大義を果たさんと国会開設の運動に心血を注ぎ、全国を遊説して回ります。愛国公党、のち自由党を結成しこれが現在の自由民主党の結党の起源ともなります。
【碑文】
「是れ板垣退助先生の旧邸址、もと藩侯の有たり。先生、征韓論破し冠を掛けて郷に退き居を此に移さるるや立志社の創立郷党子弟の指導、自由民権の首唱、国会開設の運動に心血を傾注し、天下の名流来りて教を乞ふ。實に時務の策源、政党の揺監地にて憲政発祥の起点たり。今、碑を建てて永く其の偉跡を表す。大正13年10月建設、同志会」


所在地:高知県高知市萩町2丁目2番25号(附近)
最 寄:「東洋電化工業 株式会社」の東北側角附近
形 状:板柱型
建立年:大正13年10月
建碑者:同志会

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