高知市内の『吉田東洋(正秋)先生遭難地』(皇紀2672.3.19撮影)


★高知市内の『吉田東洋(正秋)先生遭難地』(皇紀2672.3.19)

高知市内にある『吉田東洋(正秋)先生遭難地』です(お墓は高知市潮江山にあります)。吉田家は長宗我部氏の重臣で、土佐藩主山内家の入国以降は山内家に仕えて、さらに重用されました。

東洋先生は、藩政改革を行い土佐藩の富国強兵に勤めました。安政元年、山内容堂の江戸参勤に随行した際、酒宴の席で、酔った松下嘉兵衛が東洋の頭に手をかけた事から「武士の頭に手をかけるとは何事か」と嘉兵衛を殴った為、土佐に帰国後、謹慎処分を受けます。

その後、長浜鶴田に移住し、安政2年4月には「鶴田塾」を開き、身分の上下に関係なく教育を施し、幕末・維新で活躍する人物の多くを輩出する事になりますが、土佐藩は、元々一豊公以来の家康公恩顧の大名であった為、東洋先生の改革の主旨は、徳川家を立てた上での【公武合体】を目指したものであった為、勤皇を第一とした武市瑞山とは意見が合わず、瑞山先生門下の、安岡嘉助・那須信吾・大石団蔵らの襲撃によって暗殺されてしまったのが、高知市帯屋町のこの附近です。

東洋先生の遺児、源太郎正春は、後藤象二郎元曄らの扶助によって撫育せられ、明治政府に出仕し、「民撰議院設立建白書」の書面作成にも尽力したそうです。

東洋先生も、瑞山先生も土佐に欠かすことの出来ない傑物ですね。


所在地:高知県高知市追手筋2丁目1番地(附近)
最 寄:「追手前小学校」東塀前
形 状:石碑型(角柱)

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