大阪市平野区(史跡「畠山政長墓所」内)の『乃木将軍景仰碑』(皇紀2673.8.2撮影)


★大阪市平野区(史跡「畠山政長墓所」内)の『乃木将軍景仰碑』(皇紀2673.8.2)

史跡「畠山政長の墓所」にある『乃木将軍景仰碑』がこれである。
碑の左横には日露戦争当時の砲弾の実物が奉納されている。

以前、7年ほど前にこの場所を訪ねたことがあるが、その日は折からの小雨まじりの天候となり、また日が暮れかけて薄暗くなってしまったので、この碑文を詳しく読むことが叶わなかったので、今回、7年ぶりに再びこの場所を訪問した。「畠山政長の墓所」は往昔は畑の真ん中にあったらしいのだが、現在は周囲に民家が建ち並び、大変見つけにくい場所にある。


【碑文】
明応2年4月23日畠山政長、又、軍師佐々木源次左衛門清高以下200余名此地に戦死す。時に清高の室、孕めり、丹波乃木谷に難を避け、子秋綱を生む。之れ乃木家の祖にして、乃木将軍歩兵第5旅団長の頃、祭祀の絶え、人事を憂へ郡司に調査を嘱し又、親しく展墓せられたりと伝ふ。将軍の純忠至誠にして崇祖の念厚かりしは更に賛言を要せず茲に永く景仰する為の也。木村好邦識之


なぜ、畠山政長の墓所に『乃木将軍景仰碑』が建碑されているか少々説明が必要だろう。乃木希典の先祖が、畠山政長の軍師を勤めた佐々木源次左衛門清高の落胤の「佐々木秋綱」という人物であり、清高の戦死後、妻である「粟津四郎左衛門清久の三女」が、但馬(碑文では「丹波」)の乃木谷に逃れて隠棲し、産まれた子「秋綱」が「乃木氏」を名乗ったという乃木氏の始祖伝承に基づくものなのである。

この経緯を知らなければ、なぜ此処に乃木大将の碑が建てられているのか、いささか戸惑うことであろう。

乃木家の歴史を、さらに詳しく説明すれば、乃木希典の先祖は人皇第59代宇多天皇の苗裔で、宇治川の先陣争いで武名を馳せた佐々木高綱に遡るとのことである。

高綱の二男にあたる佐々木光綱は、隠岐・出雲両国守護であった叔父佐々木義清の娘を娶って義清の猶子となり、出雲國意宇郡野木を領し、野木二郎左衞門尉光綱と名乗ったのが「野木氏」の初代である。

…その「野木氏」が直接「乃木氏」となるなら分かり易いのだが、実はそう単純では無い。

野木氏は、光綱の後は「泰綱―高範―綱俊―高常―希綱―頼玄―幸綱」と続くのだが、この「野木山城入道幸綱」の子「利綱」の代からは、本姓の「佐々木」に復姓したらしく「佐々木三郎左衛門利綱」と名乗っている。この「利綱」の次男が「佐々木源次左衛門清高」であるらしい。(尤も昔のことなので、名字も一つに限定したものでもなく、本姓も併用して名乗っていたのかもしれないが…)

そして、その「佐々木源次左衛門清高」と「粟津四郎左衛門清久の三女」の間に出来た子「秋綱」が、但馬国城崎郡乃木谷で育った為、「乃木氏」を名乗ったとのことである。乃木希典の系譜の先祖の部分に出てくる「乃木次郎左衛門秋綱」というのがそれである。つまり「佐々木→野木→佐々木→乃木」という流れであり、「野木」と「乃木」は偶々同じ「ノギ」という読みであったに過ぎないのである。…という訳で、乃木大将の乃木家の系譜には二つの始祖伝説が出てくるのである。

乃木希典の系譜には「乃木次郎左衛門秋綱」は、但馬で生まれ育ち、その後、美濃国の土岐左京大夫に仕えた旨が載せられている。

また、一方「乃木次郎左衛門秋綱」と同時代の人物としては、但馬の山名氏に仕えた「乃木日向守」という人物がおり、一説には「乃木次郎左衛門秋綱」と「乃木日向守」は同一人物であるとも言う。その説に従えば、秋綱は但馬で生まれ育ち、初め但馬の山名氏に仕えたが、何かゆえあって山名家を致仕して、遠く美濃に遷り「土岐氏」に仕えたということであろうか。


「秋綱」の後は「高家―高泰―高春」と続くのだが、この高春は、再び「佐々木氏」を称し「佐々木三太夫高春」と名乗っている。佐々木高春は、古田織部に仕えた人物で、豊太閤の高麗征伐に出兵している。


高春の後を継いだのが娘婿の冬継という人物で、冬継は高春が高麗征伐の時に一緒に出兵した人物であり、高春に気に入られて帰朝後、高春の娘婿になった人物のようである。

「冬継」の後は「冬純―瑞昌」と続き、「瑞昌」は医術を学んで毛利秀元公に仕え、再び「乃木氏」を称している。「瑞昌」は一代限りの医者として仕官していたようだが、子の「乃木傳庵瑞榮」が、長府毛利綱元侯の典医となって以降は、歴代召抱えられて長州藩士となっている。(※つまり乃木家の名字の変遷は「佐々木→野木→佐々木→乃木→佐々木→乃木」という流れである)

「瑞榮」の後は「瑞心―庸和―周仲―希健―希次」と続いている。「乃木喜十郎希次(希告)」の三男「乃木文蔵希典」が、「陸軍大将伯爵乃木希典」その人なのである。


こういった、由来を知っていないとなぜ乃木大将が、「畠山政長の墓」をしみじみ眺めたのか理解が出来ないであろう。乃木大将は「畠山政長の墓」を眺めながら祖先の武勲と歴史に思いを馳せたに違い無い。


所在地:大阪府大阪市平野区加美正覚寺2丁目6番37号
最 寄:「畠山政長墓所」内
形 状:石碑型(奉納砲弾あり)
揮 毫:内閣総理大臣陸軍大将 阿部信行
識 文:木村好邦

参考文献
『八束郡誌(所収 乃木家系図)』島根県八束郡編纂
『乃木大将事跡(所収 乃木氏系図)』乃木十三日会
『乃木氏系図』近江佐々木神社 蔵、乃木希典奉納
『藩中略譜(所収 乃木氏)』長府図書館 蔵

■HOMEへ