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『(残念さん)山本文之助鑑光の墓』の案内文(皇紀2674.9.10撮影)
★兵庫県尼崎市の「杭瀬東墓地」にある『山本文之助鑑光の墓』通称【残念さん】へお参りました。(皇紀2674.9.10)
【残念さんの墓】の案内文の大意
「この墓は、長州藩士・山本文之助鑑光の墓です。
元治元年(1864)、『蛤御門の戦い(禁門の変)』に敗れた、文之助は山崎路(西国街道)を通って京都から敗走。長州を目指して帰国の途中、「大物(だいもつ)」の北ノ口御門あたりで尼崎藩兵に捕えられてしまいました。文之助は、拷問にあって不如意の事を自白したりすれば、藩に迷惑がかかるのではないかと案じ、自らの名や出身地などを何も話さず留置された会所(役人の詰所)の中で、その日の内に自害してしまいました。
文之助は、この時29歳で、後日の尼崎藩からの報告によれば、彼の所持品の刀の袋に名が記されていたので、姓名が分かったということでした。
文之助は、黙秘して名乗りませんでしたが、後に判明したことによると、彼は「長州藩・来栖源兵衛組に属する装條銃中間(同心・足軽の身分)である山本文左衛門の子」であるということが記録されています。
また当時の記録、大坂本町の呉服屋・扇屋真助が手代に書かせた日誌によると、文之助の書置き(遺書)には「残念で口惜しい、もし口惜しいことがあれば、自分の墓にお参りすれば一つだけ願いを叶えてやろう」と書かれていたとのことです。
この噂を伝え聞いたおびただしい人々が、大坂から文之助の墓へ参詣しました。そして、これ以降『願い参り』が大流行し、大坂町奉行所はこれを一切禁止しようとしましたが、この禁圧の中で、彼の墓は人々から【残念さん】と呼ばれるようになり、世人の長州藩に対する同情も高まっていきました。
尼崎教育委員会」
現在は尼崎市の史蹟に指定されています。
(残念さん)山本文之助鑑光命之奥都城は、大阪の「阿倍野墓地(大阪南霊園)」にもあり、大阪市天王寺区の「大江神社」の中腹にある「大江護國神社」や、「靖國神社」にはその分霊がお奉りされていります。
所在地:兵庫県尼崎市杭瀬南新町4丁目9番13号
最 寄:「杭瀬東墓地」内(入口左脇附近)
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