兵庫県加古川市の「称名寺」に建つ『七騎供養塔(宝篋印塔)』(皇紀2672.4.18撮影)


★兵庫県加古川市の「称名寺」に建つ『七騎供養塔(宝篋印塔)』にお参りしました。(皇紀2672.4.18)

兵庫県加古川市にある塩冶高貞の家臣【七騎塚】にお参りに行きましたが、これは、加古川の東岸にある『称名寺』の【七騎供養塔(宝篋印塔)】です。これも同じ日に行ってきました。(加古川の西岸にある【七騎塚】は、七騎の討死した場所近くにあります) また『称名寺』は「加古川城」の跡地でもあります。

【七騎供養塔(宝篋印塔)】は、以前写真で時に、耳が外に広がった形なので、江戸時代の形式かな?と思っていたのですが、行って見てやはり江戸期のものと分かりました。 文政3年に地元の有志「山田正敬」という方が七霊を弔う為に建てられた塔というのが分かりました。(七騎塚の碑文に「山田政敬」とあるのと同じ人だと思います)碑文を「古賀博士」に依頼したと書かれてますがこれは「古賀精里」のことです。

(正面)
智勇院殿敬愛成功大居士(塩冶六郎重貞)
忠山直道居士(木村玄信入道)
一忠断金居士(木村源五)
築操雄然居士(淵名七郎)
臨機運壽居士(眞嶋兵衛)
當鋒禦仇居士(平田十郎左衛門)
捨身流芳居士(山中四郎)

(左面)鹿兒河(加古川)有塩冶氏七騎之墓。邑人「山田正敬」塋(はか)建之碑。請「古賀博士」爲文。而吾先人書之今然西岸者是也。「正敬」又聚河中小石。寫「法華経」一石一字。

(碑陰)積成八苞将■■地以修其福而病死。不果野村生者謀継其志邑人醵錢助成之子。邑之「称名寺」中建塔表所請余識。其縁故焉。

(右面)嗚呼元建之際爲三殉難知「七騎」者何、限「七騎」所獨得知己於四百餘年後如此然可異也。
文政三年歳在庚辰春三月
藝國 頼襄 撰併書。

(※■■の部分は碑文欠損)

「七騎」の討死した日は、暦応4年(興国2、西暦1341)3月24日と言われ、その三日後の3月27日には、さらに播州陰山(現 姫路市)でも追手に追い着かれ、塩冶六郎重貞の嫡子の塩冶宗貞や、塩冶山城守宗村、八幡六郎、早田宮(先帝御外戚)の御女(弘徽殿)西臺院などなど多数がこの周辺で自害、もしくは討死しています。

そして、塩冶高貞自身も領国の出雲国宍道郷に帰りついたものの、「もはやこれまで」と4月3日に佐々布山で自害します。

(※「早田宮」は後嵯峨天皇御子で鎌倉将軍「宗尊親王」の御子「真覚権僧正」のことです。兵庫県姫路市豊富町豊富2952にある『圓通寺(曹洞宗)』に彼女の菩提は弔はれてます。この『圓通寺』とは彼女の法名「水月院圓通妙應大姉」に由来しています)

※残念なことに加古川市文化財保護協会の説明板は、塩冶高貞家臣の討死の年を「正平5年」と間違えて記載しそれを孫引きしてるガイドでもそのまま書かれています。『太平記』を読んだ人なら誰でも分かるのに…(><)。正しくは【暦応4年(興国2、西暦1341)】ですよね。加古川市文化財保護協会よ!しっかりしてくれよ!!


所在地:兵庫県加古川市
最 寄:「称名寺」境内
形 状:宝篋印塔型

■HOMEへ