宝塚逆瀬川(平林寺)の『忠魂碑』(皇紀2673.8.3撮影)


★兵庫宝塚の『忠魂碑』にお参りに行きました(*^^*) (皇紀2673.8.3)

阪急「逆瀬川駅」下車すぐの高台を登ったところにある平林寺の『忠魂碑』にお参りしました。

【碑文】
「明治三十七、八年役、兵庫縣武庫郡良元村出身兵士之轉戦、于満洲之野者総六十有七人。而其殞命鋒鏑之間者合三人。伊孑志歩兵上等兵馬殿君熊吉之於長岑子小林一等卒友金君丑松之於三塊石。及同一等卒友金君卯之松之於小東勾是也。並叙勲八等功七級。而其獲病死、於廣島豫備病院者、為伊孑志一等卒田中君松之介、叙勲八等。嗚呼諸士之軽身重義道烈、永存所以使後人観感興起者、孰忍致湮滅無聞哉。於是郷黨相謀、建碑嘱餘勒之夫諸士。既以身許國叙勲之榮賞功之典英。以加焉今也。豊碑隆然深刻大書。英名炳焉。千歳不朽、自非諸士之忘家報國、與郷黨之崇功。好義安能得如此乎是可以傳也。明治四十一年歳次戊申八月 大阪 木崎孝撰、湯川亨書」

【拙抄訳】
「明治三十七〜八年に起きた日露戦争では、兵庫縣武庫郡良元村(現 宝塚市の伊孑志・小林・鹿塩・蔵人の地域)出身の兵士で満洲の野を転戦したのは総数67人でした。その中で、鋒鏑(合戦)して散華し者が3人。伊孑志(いそし)出身の歩兵で上等兵であった馬殿熊吉君が長岑子で討死し、小林(おばやし)出身の一等卒、友金丑松君が三塊石という場所で討死。そして同じく一等卒の友金卯之松君が小東勾という場所で討死しました。3名は勲八等功七級に叙せられました。また、その中にいた伊孑志出身の一等卒の田中松之介君は、病気になって廣島豫備病院で亡くなりましたので、勲八等に叙せられました。嗚呼(ああ)、諸士(みんな)が、一命に変えて義(ただしき)道(みち)を全うしたことを、永く語り継ぎ、消えて無くなってしまわないように、後世の人に伝える為にどうしたら良いか村人たちは相談し、碑を建てて彼等の活躍を刻みました。もちろん、国家より栄典を賜っている彼等ですので、それに比べればつけ足しのようなものに過ぎないかもしれませんが。…という訳で、立派な碑を作り、大きな文字で深々と刻みました。彼らの名声は永遠に朽ち果てることなく、村人からも尊敬され続けることでしょう」とまあこんな感じの文意でしょうか(*^^)b

所在地:兵庫県宝塚市社町4番地7号
最寄:「平林寺」墓地内
形状:石碑型(平石)
年代:明治41年8月
碑陰:大阪 木崎孝撰文
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